それはまるで、ひそやかな霧のように、 光を通さない曇天の空はひどく私を安心させる。 輝く星なんてひとつもない、帰り道。 家までの足取りがいつもよりも軽い。 階段を上りきれば、ガチャリと鍵を開く音。 「あ、どうも」 「こんばんは」 お隣に住む、三上さんだった。 「これからお仕事ですか?」 「一週間スタジオにこもりっきり」 「うわー。大変ですね」 「まあ、もうすぐ全国ツアーだからな」 「お疲れ様です」 「あ、そうだ。もし宅配便とかきたら受け取っといてほしいんだけど」 「はい。わかりました」 「じゃあ、」 「頑張って下さいね」 腕時計に目をやれば、午前2時を過ぎたあたり。 売れっ子バンドというのは、やはり大変なのだろう。 三上さんはもう見えない。 闇に溶けてしまったのかな。(そうだったら羨ましい) 三上さんがでかけてから4日後。 同じような暗闇の中、ベランダに出てタバコを味わう。 また、ガチャリと鍵の開く音が聞こえた。 「おかえりなさい」 「うおっ! びびらせんな!!」 「あはは。驚かせてすいません」 「って、タバコ吸ってんのかよ」 「軽めのを」 「ふーん。そんなんじゃ吸った気になんねえだろ」 「ヘビースモーカーですね」 「最初はカッコつけてただけなんだけど、な」 「やめられなくなっちゃいました?」 「やめられなくした」 「ムリに?」 「物言わぬ逃げ場が欲しかったんだよ」 「さすがバンドマン。格好良いこと言いますね」 「うっせえ」 吸っていたタバコは、そのままベランダに落ちる。 頼りない、でもなぜか安心する赤い炎が妙にゆらめいていた。 「なあ、」 「何ですか?」 「キスしたい、っつったら怒るか?」 「怒ります」 「あっそ」 「でも」 ジャマな防火扉を越えるように、柵から身を乗り出す。 思ったよりも近くにあった三上さんの顔は驚くほど整っていて。 私はその唇に、タバコの火のような赤を落とした。 「キスして、って言うなら怒りません」 「・・・やられた」 「もう少し遊んだ方が良いんじゃないですか?」 三上さんは小さく舌打ちをして、私の頭をつかんだ。 待ち受けるのは、噛み付かれるようなイタイキス。 タバコの苦味が、より一層唇の甘さを引き立てた。 (2008/10/12 つばめちゃんに勝手に捧げたロデオ三上) |